土井です。感想の続きです。
c. イリノイ大学
この大学の上映会では、『…シスターフッド』以外に、"Looking for Fumiko"(映画の説明は、www.cine.co.jp/works1/list/90_9.htmlへ)の上映もありました。"…Fumiko"を観たのはこれが二度目でしたが、映画の始まりで映った史子さん(私はフミちゃんと呼んでいた)の顔が懐かしく、私が彼女を北海道に訪ねた71-2年の頃にことを思い出して、涙が出てしまいました。この映画が93か94年に、サンフランシスコのアジア映画祭で上映されるまで、フミちゃんがアメリカに来ていたことも、亡くなったのも知らなかったので、この映画を初めて観た時はその衝撃が強くて、あまり客観的な判断が出来なかった記憶があります。
横道にそれますが、忘れないうちにここで書いておきたいことがあります。
リブセンがあった当時、札幌のリブの女たち(『札幌リブ・メトロパリチェーン』というような名前のグループだと記憶していますが、間違っていたら訂正してください)の活動は、ものすごく活発で、毎号リブニュースを100部以上買い取って、リブセンをサポートしてくれる力強い仲間でした。互いの行き来も頻繁で、私も札幌の大きな家でコレティブ生活をしていた彼女たちを数回訪ねています。
彼女たちは、札幌市内に女の本屋や保育所、飲み屋さんまで経営していて、実にパワフルなグループでした。強力なリーダー的存在がいないにも関わらず、力強い運動展開をしていたことは、今思い返してもとてもリブ的だったと思います。互いに厳しいことも言い合う言うけど、基本的には女に優しい女たちだったので、一緒にいると無理をしないで自分でいられる安心感があった。正直なところ、リブセンの暮らしがあまり辛く、人間関係にも問題があったので、北海道に逃げて行きたい気持ちになったことが何度もありました。
フミちゃんは、その頃友人かお姉さんと、運動関係のポスターなどを印刷するシルクスクリーンのコレクティブを持っていて、カッコ良かったです。フミちゃんに言わせると、元々は彼女がリブ大会のシルクスクリーンを見てすごく刺激され、製作をしたPちゃん(『シスターフッド』に映画に出ている森さん)にやり方を教わって、北海道に知識を持ち帰ったと言っていました。美しいシスターフッドのある時代です。フミちゃんは、アーティスティックな感覚が鋭く、手先の技術に優れた人だったのでしょう。その後は、札幌パルコの仕事など、かなり微細なデザインの高度な仕事を引き受けるほど成功していました。これらのことは"…Fumiko"の映画では触れられていないので、ぜひ書いておきたいと思いました。
今回は前回より冷静な気持ちで観ることが出来た訳ですが、久しぶりにこの映画を観て、『…シスターフッド』との作り方と、目的の違いがはっきりと見えて、面白かったです。"…Fumiko"の方は、明らかにアメリカの観客に向けて説明的に作られている。いかにもドキュメンタリー映画らしいプロっぽい作りで(カメラは栗原監督のアメリカ人の夫かボーイフレンドだったと記憶していますが)、栗原さんがNHKなどのニュースアーカイブから、映像を買うために大分お金を使ったと言ってたのを覚えています。
栗原さんの出発には、フミちゃんとの出会いの感動があったはずなのに、その熱い思いが伝わってこなかった。彼女がこの作品以降映画を作っていないのも、その熱さの欠如から来ているのではないかという気がします。
栗原さんが映画の中で女たちに質問する内容も、「あの時は良かったけど、今はどうですか?」というような、リブ運動に対する不信感を助長するネガティヴな聞き方が多かったように思いました。これは観客と同じ場所に自分を置いて聞くという意図的な質問だったのか、実際の栗原さん自身の思いだったのか。しかし、こういう質問を選んだという事自体は、監督の製作姿勢を表れだと判断すべきでしょう。だから結果として、自分を安全地帯に置いて、外から中を覗くだけの映画になっているだと思います。作り手の主張の見えないのです。
個人的は、田中さんや麻鳥さん、舟本さんなどだけでなく、北海道の女たちの当時の姿と考えに触れることが出来たの、本当にうれしかったです。フミちゃんがいたあの力強い北海道のリブの運動は、もっと記録されるべきだと思いました。こういう記録になると必ず、田中さんが代表して語るみたいな傾向があると思うのですが、それではリブの全体像は残せないでしょう。これは、山口さんからも指摘されたことで、耳が痛かったです。という訳で、長くなることに恐縮しつつ、この記録を綴っています。
ようやく本題です。イリノイ大学上映会は、かなり小さな会場(詰めても30人でいっぱい)だったので、驚きました。最初からこんなに遠慮した感じの集まりにしなくても、という感じがしないではありませんでしたが、おいしいペーストリーやサンドイッチがなどが用意され、小さく集まったからこそできる歓迎の気持ちが伝わる温かな集まりでした。日系の年配女性の方や、ネイティブアメリカンの男性なども参加され、バラエティのある親密感の持てる雰囲気になり、緊張した前回よりかなりリラック出来たことは確かです。
ちなみに会場となったアジア系学生のホールという小さな建物は、この大きな大学構内にあるマイノリティ村のような一角にあり、隣りはネイティブアメリカンの学生の建物でした。こういう場があるというのはマイノリティの学生にとっては、ほっと息の付ける場なのかもしれないなと思う一方、これも社会の縮図みたいなものではないのかなと、向え側にあった経済だか歴史だかの巨大で重厚なビルディングとの対比で思いました。
私は、大昔にサンフランシスコの日本町で働いたことがあるのですが、あの町で日本語を使って働く気楽さと、気絶するほど安い賃金という閉塞感を体験しました。壁のないゲットー、壁の外(街の中心、ダウンタウンなり金融街なり)に出て、働く力が萎えていく感じを、ふっと思い出したのです。マイノリティの学生にとって、学内に自分たちの場と呼べるものあることの利点と、半面の危険性のようなもの考えてしまった訳です。
ここのディスカッションで特に印象に残っているのは、ネイティブアメリカンの男性のコメントでした。これも私の記憶違いがあれば、訂正をお願いしますが、彼が映画を見て面白いと感じたのは、初期のリブ女たちが長い時間座って延々と話をしたというところだったこと。なぜなら、彼が属すナバホの部族内でも物事を決める時に、上から下に決定事項を伝えるというやり方ではなく、ともかく座り込んで延々と話しあって物事を決めて行くからだ、と指摘してくれたことでした。ナバホとリブの共通点、これには、なるほどなあと思いました。私がネイティブアメリカンの文化に無知であったこともあるのですが、この指摘は重要なことだと思いました。
つまり、すべての問題を個から出発させる、という方法論です。これには手間と時間が掛かる。でも、初期のリブは女たち一人一人の声をとても大切にしたことは事実でした。今でも思い出すのは、リブセンでリブニュースの名前を決めるのに、延々と話し合ったこと。名前一つ決めるのに何日も掛け、ご飯を作って食べたりしながら、皆でアイディアを出し合った。実に非効率的でしたが、ああいう体験の中にこそ、リブの力と可能性があったのだと、今思います。
ところが、リブセンという場を持ったことで、運動は加速的に忙しくなり、非効率的なミーティングをする余裕が無くなっていった。会議はだんだん企業社会のような、議題を決めて効率良く決定をしていくようになり、さらには発言力のある人が決定権を持ち始め、上と下という二重構造が固定化していった。あの時点で、リブの精神性はすでに死んでいたと思います。
札幌のリブが、リブセンの失敗から免れたのは、地域的に北にあったことが大きかったかもしれません。リブセンの不幸は、東京という政治や経済の中心地に運動の拠点があったこと。優生保護法や刑法の改悪問題など、国会に出かけて阻止する運動を担い、その運動を進めていくために強力な指導力や発言力、行動力を持った女が生まれる必然があったのだと思います。
しかも、運動は役割分担がはっきりした方が、進めやすかった。企業社会と一緒です。という訳で、強力な指導力や発言力、行動力を持たない私は黙々と印刷物を刷っては、ビラまきをしていた。これでは、まったく男社会の力の論理のままではないかと精神的に落ち込みつつ、自分には力がないから仕方がないのだと、思い込んでいた。社会的な逆風も強く、ここで自分が辞めたら、女の解放運動は負けだ、という幼い気負いもあったと思います。
東京にいても、個を大切にするリブの精神を保つ運動展開することも可能だったと思いますし、あの当時、リブセンを去っていったたくさんの女たちも、同じ思いだったのではないかと今になって思います。しかし、あの時の私には、リブセンの方向を転換させるような提起をすることが出来なかった、ということです。その後、自分の非力を責めるような時期が長く続き、アメリカへ渡航という展開になっていきます。私の問題は、すべてを自分の非力の問題に期してしまったこと。リブセンの変質の問題は、私の個人的な問題ではなく、あの時代と運動の未熟さ、運動論の確立の欠如など、運動自体の問題であったと思います。
という訳で長い話になりましたが、ナバホの男性の指摘は本当にうれしかった。その彼から以下の手書きのメッセージをその場でもらいました。